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家茂死後

慶応元年(1865年)8月10日、和宮と共に江戸に下向し大奥に住まっていた母・観行院が薨去する。

9月16日、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの軍艦が通商条約の勅許と兵庫開港を求めて兵庫浦に集結し、幕府の奏請を受けた孝明天皇は10月5日に条約を勅許した。条約勅許の報を受けた和宮は11月1日、「攘夷の実行を条件に徳川家に嫁いだのに、条約が勅許されては歴代の天皇・当今様(孝明天皇)に申し訳ない」と攘夷の叡慮を貫徹するよう朝廷に要請している。

一方、長州征伐は9月21日に勅許を得たものの、薩摩藩の出兵拒否などもあって開戦は延引となっていた。そんな中、慶応2年(1866年)4月になると大坂城の家茂は体調を崩し、6月には食事も進まなくなっていた。家茂の病状が伝えられると和宮は湯島の霊雲寺に病気平癒の祈祷を命じ、医師も蘭方医から漢方医に変えるよう手配し、医師3名を大坂に向かわせた。また孝明天皇も典薬寮の医師を派遣している。

しかし7月20日、家茂は大坂城で薨去。7月25日、家茂の訃報が江戸に届くと老中から「継嗣は家茂の遺言通り田安亀之助でよいか」と和宮の意向が問われた。和宮は、「時勢を鑑みて、幼い亀之助ではいかがなものか。確かな後見人がいればよいが、 そうでなければ然るべき人物を後継に立てるべき」と申し出た。老中板倉勝静らも多事多難の折柄、一橋慶喜を15代将軍に立てるべきと判断し、慶喜の後継として亀之助をと和宮に伺ったところ、和宮は「亀之助が成長した暁には、慶喜の跡を継がせればよい」とした。7月28日、幕府は朝廷に慶喜の徳川宗家相続と征長出陣の許可を求めて翌日には勅許されるが、戦況は幕府の敗色濃厚となり、9月2日には休戦協定が結ばれて終結した。和宮は慶喜に、攘夷の実行を願う書状を度々出しているが、慶喜はそれを黙殺している。

12月9日、和宮は落飾し号を静寛院宮と改めた[6]。12月25日、孝明天皇が崩御し、和宮は一年余りの間に母・夫・兄を次々と失うこととなった。

慶応3年(1867年)1月9日に明治天皇が践祚すると、橋本実麗・実梁父子等、孝明天皇の勅勘を蒙って参内を止められていた公卿達が復帰し、佐幕派で占められていた朝廷の顔ぶれは大きく様変わりする。5月8日、天皇は摂政・二条斉敬に和宮の帰京の方策を講ずるように内旨し、6月に入ると朝廷と幕府の間で内交渉が始まったが、交渉は進まなかった。10月に入って和宮から、「攘夷のために下向したが、その甲斐無く。これ以上、外国人が徘徊する江戸にいては朝廷の威信を汚すことになるので善処して欲しい」との要請があると、交渉は加速し、「明年1月中旬までに上洛させる」ということで決着する。

10月14日、将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返還(大政奉還)し、列侯会議を主導する形での徳川政権の延命を図った。しかし、薩長両藩と手を結んだ朝廷内の討幕派は12月9日、王政復古の大号令を発し、旧弊を廃して官制を一新し、慶喜には辞官と領地の返上を求めた。この同じ日に和宮を京都に迎えるため公卿を江戸に派遣する旨が布告された。

明治元年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争が勃発。戦いに敗れた徳川慶喜は12日に軍艦「開陽丸」で江戸へ戻った。江戸城では軍議が開かれたものの議論百出で結論は出なかった。大勢は主戦論に傾いていたが、既に朝廷への恭順の意を固めていた慶喜は和宮に取り成しを頼んだ。

1月15日、慶喜は天璋院の仲介で和宮に面会、隠居と継嗣の選定、謝罪の伝奏を願ったが、和宮は謝罪の件のみを引受けた。和宮は天璋院と相談して、征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王には土御門藤子を、東海道鎮撫総督・橋本実梁には上臈・玉島をそれぞれ歎願の使者として差し向けることにした。

和宮の歎願書を携えた土御門藤子は2月8日に京に到着した。その頃、朝廷では徳川征討を主張する西郷隆盛ら薩摩藩と、外国の干渉を懸念して徳川家への寛大な処分を唱える岩倉具視らが対立し、結論が出ずにいた。しかし次第に厳罰論が優勢となり、2月15日に東征大総督・有栖川宮熾仁親王の進発が決定した。

3月1日、土御門藤子は朝廷の返書を持って江戸に帰還。朝廷からの返答は「願いの儀については朝議を尽くす」とだけあったが、共に持参した橋本実麗の文に副えられた正親町三条実愛の書状の写しには、「謝罪の道筋が立てば、徳川家の存続は可能」との旨があった。3月2日、一橋茂徳・田安慶頼の歎願書を一橋が大総督有栖川宮に持参することになった。和宮は進軍の猶予は請わないが、歎願書を直接有栖川宮に見てもらえるよう橋本実梁に頼んでいる。

3月5日、勝海舟が西郷隆盛に面会に赴く旗本・山岡鉄舟に託した手紙には「慶喜の恭順の意を解さぬ士民が決起した場合、こちらには統御の術が無く、和宮様の尊位は保ちがたい」との文言がある。9日、山岡は駿府にて西郷隆盛と面会。江戸城の開城・徳川慶喜の謹慎・幕府海軍の武装解除など、徳川家存続に向けた具体的な条件を引き出すことに成功した。これを受けて13日、江戸高輪の薩摩藩邸で勝と西郷が会談。後年、勝は「この日は和宮様について、皇女を人質にとろうなどという卑劣な考えは微塵も無いのでご安心されたい。その他のことは明日に改めて談判しようとだけ言って帰宅した」と述懐している(『清譚と逸話』)。翌14日の会談で、勝は山岡の持ち帰った条件に添う形での恭順の意を示した歎願書を渡し、西郷もこれを受け入れて江戸城の無血開城がなる。
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3月18日、和宮は田安慶頼の願いを受けて徳川家の家臣たちに向け、徳川家存続の朝廷の内意を知らせ「今は恭順謹慎を貫くことが徳川家の忠節であり、家名を守ることになる。」との書付を出し、幕臣達の説得にあたった。3月20日、朝廷は慶喜の助命と徳川家存続の処分を決定した。4月7日、和宮と実成院(家茂生母)は清水邸へ天璋院は一橋邸への立ち退きが決定し、9日には和宮は清水邸に移る。4月21日、和宮は朝廷に徳川家への寛大な処分に対する御礼文を書いている。

閏4月12日、和宮は橋本実梁に徳川家の城地・禄高について、家臣の扶助が継続できる禄高と国替えの宥免を願う直書を出している。新政府は副総裁・三条実美に全権を委任し、三条は29日に田安亀之助の徳川宗家相続のみを許可したが城地・禄高の決定は先送りされた。徳川家の駿河国移封・所領は70万石との通達があったのは上野戦争終結後の5月24日である。

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2009年05月30日 10:59に投稿されたエントリーのページです。

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