北欧と中欧・東欧 [編集]
19世紀の音楽はドイツ語圏が大きな中心となっていた。それに対していわゆる周辺国の作曲家が独自の民族的な音楽語法を探索する動きもすでに起こっていたが、20世紀以降に新たな展開を見せた。
日本においても伊福部昭などにより民族主義が試みられているが、これは概論(日本)において記す。
北欧 [編集]
北欧では、フィンランドのシベリウスが帝政ロシア支配下のフィンランドで民族的な題材やメッセージを込めた音楽を多く世界に発信し、その後独自の音楽語法を発展させて、フィンランドの国民的作曲家となっていたが、そのスタイルは後期ロマン派と伝統的調性から大きく離れるものではなかった。デンマークのニールセンも同様に後期ロマン派様式を基本としていたものの、リズムの扱いや復調の導入などでより近代的な面を持っている。この1860年代から1870年代生まれの世代には、他にもスウェーデンのアルヴェーンやステンハンマルなどがいるが、いずれも後期ロマン派様式の範疇にある。北欧の音楽がより近代音楽としての性格を持ち始めるのは、より後の世代の作曲家からである。アーッレ・メリカントはフィンランドにいながらにして、世界的に見ても最も前衛的な立場を取る作曲家の1人であった。ノルウェーのヴァーレンは無調や十二音技法による作品を残し、「北欧のシェーンベルク」などとも呼ばれた。スウェーデンのアラン・ペッタションは17曲に及ぶ無調の長大な交響曲を残している。
中欧・東欧 [編集]
中欧・東欧ではまずハンガリーのバルトークとコダーイの2人が挙げられる。特にバルトークは民族的な語法から純粋な音楽現象としての作曲理論を確立させ、調性音楽における転調理論の極限までの発展と、新ウィーン楽派の十二音技法とは別の流儀での12半音階の完全組織化を試みフィボナッチ数列を独自の作品に使った。
チェコではシュレーカーやニールセンと同様の後期ロマン派と近代の架け橋的存在としてスーク、ノヴァーク、より民族主義的独自性の強いヤナーチェクがおり、より後の世代としては新古典主義に進んだマルティヌー、微分音を追求したハーバがいる。ポーランドではシマノフスキが重要な存在で、ポーランド楽派の基礎となった。一連の交響曲などによって民族的でありながら同時に極めて印象主義的な作風を示している。
ロシア(ソ連) [編集]
ロシアの近代音楽に相当するのは国民楽派以後の作曲家だが、とりわけスクリャービン、プロコフィエフ、ハチャトゥリアン、それにショスタコーヴィチが代表的な存在である。
スクリャービンは前期においてはショパンやヴァーグナーの影響を示す後期ロマン派様式の作品を書いていたが、やがて独自の神秘和音などの技法を発展させて機能和声から離脱し、晩年には無調に到達した。
ロシア革命直後のソ連では、前衛的社会を建設しようとする社会気風と相まってロシア・アヴァンギャルドと呼ばれる前衛的な芸術運動が生まれ、音楽においてはロースラヴェツやモソロフらがスクリャービンの後期の様式をもとに前衛的な作品を生み出したが、スターリン体制の成立と共に前衛的芸術活動は弾圧され、作風の変更を余儀なくされた。
プロコフィエフは初期にはストラヴィンスキーの原始主義に接近して交響曲第2番、第3番などを書き、また同時に新古典主義様式の「古典交響曲」などを作曲していたが、亡命先からロシアへ帰国した後は、新ロマン主義的ともいえる社会主義リアリズムの作風に進んだ。ハチャトゥリアンはアルメニアの民族音楽と深く結びついた社会主義リアリズムの作風を持つ。ショスタコーヴィッチはシェルシのような即興音楽と深い関係があり、バッハの対位法やベートーヴェンの動機展開なども独特に駆使したが、政治的圧力との戦いによって後に前衛的な手法を放棄または隠すざるを得なかった、運命的に後のユン・イサンやノーノに見られる政治音楽の先駆者でもある。
イギリス [編集]
エルガーのような純粋に後期ロマン派の作曲家よりも後の世代では、「イギリス印象派」とも呼べる作曲家たちを挙げる事ができる。すなわちヴォーン・ウィリアムズ、ホルスト、ディーリアスらである。ディーリアスのみが完全な印象主義の手法で作品を発表しているが、他の作曲家はロマン派との手法が混在している。これに対し、ウォルトンはより不協和で近代的な作風を持ち、さらに後の世代ではティペットやブリテンが重要な存在である。
スペイン [編集]
この項に適する第一人者はファリャである。その作風はスペインの民族舞踊と深く結びついてはいるが、印象主義的な手法も見落とす事はできない。他にもう少し冷たい作風のグラナドスらがいる。
バルカン諸国 [編集]
概論(アメリカ) [編集]
アメリカで新しく生まれた音楽として、ジャズが挙げられる。一般的にはクラシック音楽とジャズは切り離して語られるものであり、詳細はジャズの項に譲るが、このジャズ(最初期のディキシーランド・ジャズやスウィング・ジャズ)をたくみに取り入れた作曲家としてガーシュウィンが挙げられる。
ガーシュウィンはジャズを取り入れた「ラプソディー・イン・ブルー」によって一躍有名となり、後には「パリのアメリカ人」や歌劇「ポーギーとベス」やミュージカルなどを書くが、多忙が祟って39歳の若さで病死した。
ガーシュウィンと同じくユダヤ人のアーロン・コープランドは1900年の生まれだが、様式的には近代音楽に入れられる。アメリカ人で最初のアメリカらしい作品を書いたことで有名で、「エル・サロン・メヒコ」などのようにラテン音楽からのイディオムも使ってはいるが、多くは三大バレエのように映画音楽からの敷衍である。これらを総合した物に交響曲第3番がある。その同じユダヤ系の弟子のレナード・バーンスタインは「ウェスト・サイド・ストーリー」のようにむしろポピュラー系のミュージカルによって圧倒的に知られているが、本人の志向していたのはむしろ別で、3つの交響曲などの近代・現代手法の混合したテクニックによる一流の構成法で垣間見る事ができる。
アイヴズ、エリオット・カーター、ヴァレーズなど戦前の前衛音楽については現代音楽に分類される事が多い。
概論(日本) [編集]
ここでは明治維新以降の西洋音楽の受容から民族主義、戦時中の動向について記す。
日本では1879年(明治12年)に東京藝術大学の前身である音楽取調掛が設けられ、音楽研究および西洋音楽をベースとした音楽教育(唱歌教育)の形成の取り組みが始められた。1881年(明治14年)に『小学唱歌集』初編の出版届け出がなされる。
音楽取調掛を率いたのは伊沢修二だが、ほかに神津仙三郎(専三郎とも)、山勢松韻、内田彌一、芝葛鎮(ふじつね)、上眞行(うえ・さねみち)らの名を挙げることができる。後に近代的な日本美術の形成に力を尽くすことになる岡倉覚三(岡倉天心)は、音楽取調掛の最初期に通訳としてかかわった。
さらに、米国の音楽教育家であるメーソンの存在を忘れるわけにはいかない。メーソンは1880年(明治13年)の春に来日、1882年(明治15年)の夏まで滞日して、明治国家の西洋音楽受容に一定の役割を果たしたと言える。メーソン離日後、しばらく後任はいなかった。1883年(明治16年)6月からは、かねてより海軍軍楽隊教師として滞日していたエッケルト(ドイツ)が、音楽取調掛を指導するようになる。日本のドイツ音楽偏重志向はこのときから始まると言えるかもしれない。
音楽取調掛は一時音楽取調所と称されるが、またすぐに元に戻る。1887年(明治20年)には東京音楽学校に昇格した。
のちに滝廉太郎がドイツへ留学し、日本人による初の西洋音楽の様式による作曲が行われる。滝が世に出した器楽曲はピアノのためのメヌエットと憾みの2つであった。滝は帰国後に多くの唱歌を作曲するが、結核により夭折してしまう。
滝の跡を継いで日本の洋楽シーンを牽引したのは山田耕筰である。山田はドイツに留学し、日本人初のオーケストラ曲「序曲ニ長調」、ついで音詩「曼荼羅の華」、交響曲「勝鬨(かちどき)と平和」を相次いで発表する。その後指揮者としてアメリカへ渡り、また日本で初めての本格的なオペラ「黒船」を作曲するなど多方面で活動した。
明治以降日本の洋楽シーンはドイツ偏重だったが、池内友次郎はフランスに渡り、近代フランス音楽の様式を日本に持ち込んだ。
諸井三郎などのドイツ派、池内友次郎などのフランス派の2大アカデミズムが東京音楽学校において日本の洋楽シーンを席巻していたが、一方で昭和に入ると、松平頼則、伊福部昭、早坂文雄のように独学や東京音楽学校とは無縁の出自を持つ作曲家も現れた。彼らは戦後まもなく新作曲派協会を結成することになる。
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