2009年06月16日

文献上キムチがはじめて登場したのは13世紀初頭

文献上キムチがはじめて登場したのは13世紀初頭、李奎報の詩においてだが、少なくともそれ以前から存在していたと考えられている。

16世紀、朝鮮半島に唐辛子が伝来し、現在のように赤く辛いものが作られるようになった。なお、唐辛子は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に日本から伝来したとされている。また、江戸時代に朝鮮通信使が日本から持ち帰ったという説もある。唐辛子の原産地は中南米(ペルー説が有力)であり、当時、スペイン・ポルトガルとの直接の交易路を有していなかった朝鮮半島には、日本経由で伝来したものと考えられる。唐辛子の普及以前においてはもっぱら山椒が使用されていた。なぜ唐辛子を山椒の代わりに使用し始めたかについては明らかにされていない。

持ち込まれた当初、朝鮮では唐辛子のことを倭芥子、若しくは倭椒と呼び、毒があるとして忌避していたが、後にキムチをはじめとした料理に用いるようになった。韓国人は子供の頃からキムチを食べているので辛さに慣れている。しかし、韓国人も皆辛さに強いわけではないため、キムチは近年子供が嫌いな食べ物のワースト一、二を常に争っている。近代化にしたがい、若者がキムチを食べるよう強いられる機会も減り、キムチの消費量は減少傾向にある。

2005年10月、韓国で中国産の輸入キムチから寄生虫の卵が検出され問題となった。韓国政府が調査した結果、同国産のキムチにも寄生虫卵が発見された。寄生虫卵は未熟性のものであり、主に白菜から検出された。これらは、土中の人糞、犬猫などの動物の糞尿が感染源と見られ、製造過程に於ける白菜の洗浄が適切でなかったためと見られている。食べても問題はないとしたが、韓国政府は該当する製造メーカーに対し洗浄の徹底と寄生虫卵の残留可否を検査するように義務付けた。

様々な具材を使ったキムチがあり、その数は200種類以上あると言われている。
ライフセービング
信用取引
バドミントン
インフルエンザ脳症
ダーツ
ビタミン
近代オリンピック
カロリー
ホームシアター
脳神経外科
ご当地群馬情報
ボクサー情報
日本の正月
ご当地鹿児島
花木・庭木の気持ち
ご当地山梨
フルーツ王国
ご当地静岡
番茶百科
日サロ体験


ペチュギムチ(????)
白菜のキムチ。単に「キムチ」と称した際はこの白菜キムチを指すことが多い。19世紀に中国で新品種の白菜が輸入され一般的になった。
オイギムチ(????)
胡瓜のキムチ。
カクトゥギ(???)
大根のキムチ。カクテキとも。大根を六面体に切って作る。
チョンガクキムチ(????)
チョンガク大根(小型の大根)のキムチ。
ポサムキムチ(????)
開城地方の名物。生のイカや牡蠣などを白菜の葉で包んで漬ける。保存がきかないため二、三日で食べきらなくてはいけない。
ヤンベチュキムチ(?????)
キャベツ(?(洋)??、洋白菜の意)のキムチ。白菜の手に入りにくいヨーロッパなどへ移住した朝鮮系住民によってよく作られていた。近年開発された特殊な乳酸菌を用いて、キムチにすることに成功し、現在一部で市販されている。長期保存可能な食品に加工できることは、キャベツが生産過剰となった場合の有効な利用も期待できる。
ムルギムチ(???、水キムチ)
唐辛子、ニンニクを使わない、汁気の多い白いキムチ。汁ごと食べる。ムルギムチの汁は冷麺の汁には欠かせない。

2009年05月30日

家茂死後

慶応元年(1865年)8月10日、和宮と共に江戸に下向し大奥に住まっていた母・観行院が薨去する。

9月16日、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの軍艦が通商条約の勅許と兵庫開港を求めて兵庫浦に集結し、幕府の奏請を受けた孝明天皇は10月5日に条約を勅許した。条約勅許の報を受けた和宮は11月1日、「攘夷の実行を条件に徳川家に嫁いだのに、条約が勅許されては歴代の天皇・当今様(孝明天皇)に申し訳ない」と攘夷の叡慮を貫徹するよう朝廷に要請している。

一方、長州征伐は9月21日に勅許を得たものの、薩摩藩の出兵拒否などもあって開戦は延引となっていた。そんな中、慶応2年(1866年)4月になると大坂城の家茂は体調を崩し、6月には食事も進まなくなっていた。家茂の病状が伝えられると和宮は湯島の霊雲寺に病気平癒の祈祷を命じ、医師も蘭方医から漢方医に変えるよう手配し、医師3名を大坂に向かわせた。また孝明天皇も典薬寮の医師を派遣している。

しかし7月20日、家茂は大坂城で薨去。7月25日、家茂の訃報が江戸に届くと老中から「継嗣は家茂の遺言通り田安亀之助でよいか」と和宮の意向が問われた。和宮は、「時勢を鑑みて、幼い亀之助ではいかがなものか。確かな後見人がいればよいが、 そうでなければ然るべき人物を後継に立てるべき」と申し出た。老中板倉勝静らも多事多難の折柄、一橋慶喜を15代将軍に立てるべきと判断し、慶喜の後継として亀之助をと和宮に伺ったところ、和宮は「亀之助が成長した暁には、慶喜の跡を継がせればよい」とした。7月28日、幕府は朝廷に慶喜の徳川宗家相続と征長出陣の許可を求めて翌日には勅許されるが、戦況は幕府の敗色濃厚となり、9月2日には休戦協定が結ばれて終結した。和宮は慶喜に、攘夷の実行を願う書状を度々出しているが、慶喜はそれを黙殺している。

12月9日、和宮は落飾し号を静寛院宮と改めた[6]。12月25日、孝明天皇が崩御し、和宮は一年余りの間に母・夫・兄を次々と失うこととなった。

慶応3年(1867年)1月9日に明治天皇が践祚すると、橋本実麗・実梁父子等、孝明天皇の勅勘を蒙って参内を止められていた公卿達が復帰し、佐幕派で占められていた朝廷の顔ぶれは大きく様変わりする。5月8日、天皇は摂政・二条斉敬に和宮の帰京の方策を講ずるように内旨し、6月に入ると朝廷と幕府の間で内交渉が始まったが、交渉は進まなかった。10月に入って和宮から、「攘夷のために下向したが、その甲斐無く。これ以上、外国人が徘徊する江戸にいては朝廷の威信を汚すことになるので善処して欲しい」との要請があると、交渉は加速し、「明年1月中旬までに上洛させる」ということで決着する。

10月14日、将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返還(大政奉還)し、列侯会議を主導する形での徳川政権の延命を図った。しかし、薩長両藩と手を結んだ朝廷内の討幕派は12月9日、王政復古の大号令を発し、旧弊を廃して官制を一新し、慶喜には辞官と領地の返上を求めた。この同じ日に和宮を京都に迎えるため公卿を江戸に派遣する旨が布告された。

明治元年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争が勃発。戦いに敗れた徳川慶喜は12日に軍艦「開陽丸」で江戸へ戻った。江戸城では軍議が開かれたものの議論百出で結論は出なかった。大勢は主戦論に傾いていたが、既に朝廷への恭順の意を固めていた慶喜は和宮に取り成しを頼んだ。

1月15日、慶喜は天璋院の仲介で和宮に面会、隠居と継嗣の選定、謝罪の伝奏を願ったが、和宮は謝罪の件のみを引受けた。和宮は天璋院と相談して、征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王には土御門藤子を、東海道鎮撫総督・橋本実梁には上臈・玉島をそれぞれ歎願の使者として差し向けることにした。

和宮の歎願書を携えた土御門藤子は2月8日に京に到着した。その頃、朝廷では徳川征討を主張する西郷隆盛ら薩摩藩と、外国の干渉を懸念して徳川家への寛大な処分を唱える岩倉具視らが対立し、結論が出ずにいた。しかし次第に厳罰論が優勢となり、2月15日に東征大総督・有栖川宮熾仁親王の進発が決定した。

3月1日、土御門藤子は朝廷の返書を持って江戸に帰還。朝廷からの返答は「願いの儀については朝議を尽くす」とだけあったが、共に持参した橋本実麗の文に副えられた正親町三条実愛の書状の写しには、「謝罪の道筋が立てば、徳川家の存続は可能」との旨があった。3月2日、一橋茂徳・田安慶頼の歎願書を一橋が大総督有栖川宮に持参することになった。和宮は進軍の猶予は請わないが、歎願書を直接有栖川宮に見てもらえるよう橋本実梁に頼んでいる。

3月5日、勝海舟が西郷隆盛に面会に赴く旗本・山岡鉄舟に託した手紙には「慶喜の恭順の意を解さぬ士民が決起した場合、こちらには統御の術が無く、和宮様の尊位は保ちがたい」との文言がある。9日、山岡は駿府にて西郷隆盛と面会。江戸城の開城・徳川慶喜の謹慎・幕府海軍の武装解除など、徳川家存続に向けた具体的な条件を引き出すことに成功した。これを受けて13日、江戸高輪の薩摩藩邸で勝と西郷が会談。後年、勝は「この日は和宮様について、皇女を人質にとろうなどという卑劣な考えは微塵も無いのでご安心されたい。その他のことは明日に改めて談判しようとだけ言って帰宅した」と述懐している(『清譚と逸話』)。翌14日の会談で、勝は山岡の持ち帰った条件に添う形での恭順の意を示した歎願書を渡し、西郷もこれを受け入れて江戸城の無血開城がなる。
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3月18日、和宮は田安慶頼の願いを受けて徳川家の家臣たちに向け、徳川家存続の朝廷の内意を知らせ「今は恭順謹慎を貫くことが徳川家の忠節であり、家名を守ることになる。」との書付を出し、幕臣達の説得にあたった。3月20日、朝廷は慶喜の助命と徳川家存続の処分を決定した。4月7日、和宮と実成院(家茂生母)は清水邸へ天璋院は一橋邸への立ち退きが決定し、9日には和宮は清水邸に移る。4月21日、和宮は朝廷に徳川家への寛大な処分に対する御礼文を書いている。

閏4月12日、和宮は橋本実梁に徳川家の城地・禄高について、家臣の扶助が継続できる禄高と国替えの宥免を願う直書を出している。新政府は副総裁・三条実美に全権を委任し、三条は29日に田安亀之助の徳川宗家相続のみを許可したが城地・禄高の決定は先送りされた。徳川家の駿河国移封・所領は70万石との通達があったのは上野戦争終結後の5月24日である。

2009年04月27日

水の危機

水の危機(みずのきき、Water crisis)とは、1970年代から現代までの、地球上の水資源と人類の需要とを比較したときの状態をさす。世界規模で見た水資源の状況を表す言葉として、国際連合などの国際機関が使用している。特に、水不足と水質汚染が主要な問題とされる。

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地球上の水資源は、地下、表層、大気に蓄えられているが、絶対量には上限が存在する。海水を飲用水にするための処理に必要なエネルギーは莫大であり、今のところ海洋を水源とみなすのは現実的ではない。利用できる水資源とは、淡水のみに限定されている。

水の危機は次のような形で顕在化している。

世界人口のうち11億人「世界の60%」が適切な飲用水を確保できていないだけでなく、国際連合は、26億人が環境衛生(排水処理など)用水を適切に確保できていないと認識している。この問題は悪循環を引き起こす。下水処理施設がないために飲用水が未処理の水に汚染され、結果として適切な飲用水の供給を阻害している。そして、汚染された水源を使用する人々の間に病気や死をもたらす。これは開発途上国の児童に歴然とあらわれており、下痢単症によって1日あたり3,900人の児童が死亡している。

こういった死は防止できるという考えが一般的である一方、安全な水の利用可能量についての地球の許容能力には限界があるため、実情ははるかに複雑である[6]。技術革新が十全の策となりうるケースも多いが、その恩恵を得るのに必要なコストは多くの国にとって耐えがたい。発展途上の諸国が豊かになるにつれて事態は部分的には緩和されるだろうが、安定して解決するためには、各地域における水資源と人口の調整や、水資源をもっと適切に管理する体制を確立する必要がある。いずれにせよ、水資源が限りあるものだという認識が広まらなければ、世界的なバランスの改善は達成できない。

2009年04月10日

19世紀の音楽はドイツ語圏

北欧と中欧・東欧 [編集]
19世紀の音楽はドイツ語圏が大きな中心となっていた。それに対していわゆる周辺国の作曲家が独自の民族的な音楽語法を探索する動きもすでに起こっていたが、20世紀以降に新たな展開を見せた。

日本においても伊福部昭などにより民族主義が試みられているが、これは概論(日本)において記す。

北欧 [編集]
北欧では、フィンランドのシベリウスが帝政ロシア支配下のフィンランドで民族的な題材やメッセージを込めた音楽を多く世界に発信し、その後独自の音楽語法を発展させて、フィンランドの国民的作曲家となっていたが、そのスタイルは後期ロマン派と伝統的調性から大きく離れるものではなかった。デンマークのニールセンも同様に後期ロマン派様式を基本としていたものの、リズムの扱いや復調の導入などでより近代的な面を持っている。この1860年代から1870年代生まれの世代には、他にもスウェーデンのアルヴェーンやステンハンマルなどがいるが、いずれも後期ロマン派様式の範疇にある。北欧の音楽がより近代音楽としての性格を持ち始めるのは、より後の世代の作曲家からである。アーッレ・メリカントはフィンランドにいながらにして、世界的に見ても最も前衛的な立場を取る作曲家の1人であった。ノルウェーのヴァーレンは無調や十二音技法による作品を残し、「北欧のシェーンベルク」などとも呼ばれた。スウェーデンのアラン・ペッタションは17曲に及ぶ無調の長大な交響曲を残している。

中欧・東欧 [編集]
中欧・東欧ではまずハンガリーのバルトークとコダーイの2人が挙げられる。特にバルトークは民族的な語法から純粋な音楽現象としての作曲理論を確立させ、調性音楽における転調理論の極限までの発展と、新ウィーン楽派の十二音技法とは別の流儀での12半音階の完全組織化を試みフィボナッチ数列を独自の作品に使った。

チェコではシュレーカーやニールセンと同様の後期ロマン派と近代の架け橋的存在としてスーク、ノヴァーク、より民族主義的独自性の強いヤナーチェクがおり、より後の世代としては新古典主義に進んだマルティヌー、微分音を追求したハーバがいる。ポーランドではシマノフスキが重要な存在で、ポーランド楽派の基礎となった。一連の交響曲などによって民族的でありながら同時に極めて印象主義的な作風を示している。

ロシア(ソ連) [編集]
ロシアの近代音楽に相当するのは国民楽派以後の作曲家だが、とりわけスクリャービン、プロコフィエフ、ハチャトゥリアン、それにショスタコーヴィチが代表的な存在である。

スクリャービンは前期においてはショパンやヴァーグナーの影響を示す後期ロマン派様式の作品を書いていたが、やがて独自の神秘和音などの技法を発展させて機能和声から離脱し、晩年には無調に到達した。

ロシア革命直後のソ連では、前衛的社会を建設しようとする社会気風と相まってロシア・アヴァンギャルドと呼ばれる前衛的な芸術運動が生まれ、音楽においてはロースラヴェツやモソロフらがスクリャービンの後期の様式をもとに前衛的な作品を生み出したが、スターリン体制の成立と共に前衛的芸術活動は弾圧され、作風の変更を余儀なくされた。

プロコフィエフは初期にはストラヴィンスキーの原始主義に接近して交響曲第2番、第3番などを書き、また同時に新古典主義様式の「古典交響曲」などを作曲していたが、亡命先からロシアへ帰国した後は、新ロマン主義的ともいえる社会主義リアリズムの作風に進んだ。ハチャトゥリアンはアルメニアの民族音楽と深く結びついた社会主義リアリズムの作風を持つ。ショスタコーヴィッチはシェルシのような即興音楽と深い関係があり、バッハの対位法やベートーヴェンの動機展開なども独特に駆使したが、政治的圧力との戦いによって後に前衛的な手法を放棄または隠すざるを得なかった、運命的に後のユン・イサンやノーノに見られる政治音楽の先駆者でもある。

イギリス [編集]
エルガーのような純粋に後期ロマン派の作曲家よりも後の世代では、「イギリス印象派」とも呼べる作曲家たちを挙げる事ができる。すなわちヴォーン・ウィリアムズ、ホルスト、ディーリアスらである。ディーリアスのみが完全な印象主義の手法で作品を発表しているが、他の作曲家はロマン派との手法が混在している。これに対し、ウォルトンはより不協和で近代的な作風を持ち、さらに後の世代ではティペットやブリテンが重要な存在である。

スペイン [編集]
この項に適する第一人者はファリャである。その作風はスペインの民族舞踊と深く結びついてはいるが、印象主義的な手法も見落とす事はできない。他にもう少し冷たい作風のグラナドスらがいる。

バルカン諸国 [編集]

概論(アメリカ) [編集]
アメリカで新しく生まれた音楽として、ジャズが挙げられる。一般的にはクラシック音楽とジャズは切り離して語られるものであり、詳細はジャズの項に譲るが、このジャズ(最初期のディキシーランド・ジャズやスウィング・ジャズ)をたくみに取り入れた作曲家としてガーシュウィンが挙げられる。

ガーシュウィンはジャズを取り入れた「ラプソディー・イン・ブルー」によって一躍有名となり、後には「パリのアメリカ人」や歌劇「ポーギーとベス」やミュージカルなどを書くが、多忙が祟って39歳の若さで病死した。

ガーシュウィンと同じくユダヤ人のアーロン・コープランドは1900年の生まれだが、様式的には近代音楽に入れられる。アメリカ人で最初のアメリカらしい作品を書いたことで有名で、「エル・サロン・メヒコ」などのようにラテン音楽からのイディオムも使ってはいるが、多くは三大バレエのように映画音楽からの敷衍である。これらを総合した物に交響曲第3番がある。その同じユダヤ系の弟子のレナード・バーンスタインは「ウェスト・サイド・ストーリー」のようにむしろポピュラー系のミュージカルによって圧倒的に知られているが、本人の志向していたのはむしろ別で、3つの交響曲などの近代・現代手法の混合したテクニックによる一流の構成法で垣間見る事ができる。

アイヴズ、エリオット・カーター、ヴァレーズなど戦前の前衛音楽については現代音楽に分類される事が多い。

概論(日本) [編集]
ここでは明治維新以降の西洋音楽の受容から民族主義、戦時中の動向について記す。

日本では1879年(明治12年)に東京藝術大学の前身である音楽取調掛が設けられ、音楽研究および西洋音楽をベースとした音楽教育(唱歌教育)の形成の取り組みが始められた。1881年(明治14年)に『小学唱歌集』初編の出版届け出がなされる。

音楽取調掛を率いたのは伊沢修二だが、ほかに神津仙三郎(専三郎とも)、山勢松韻、内田彌一、芝葛鎮(ふじつね)、上眞行(うえ・さねみち)らの名を挙げることができる。後に近代的な日本美術の形成に力を尽くすことになる岡倉覚三(岡倉天心)は、音楽取調掛の最初期に通訳としてかかわった。

さらに、米国の音楽教育家であるメーソンの存在を忘れるわけにはいかない。メーソンは1880年(明治13年)の春に来日、1882年(明治15年)の夏まで滞日して、明治国家の西洋音楽受容に一定の役割を果たしたと言える。メーソン離日後、しばらく後任はいなかった。1883年(明治16年)6月からは、かねてより海軍軍楽隊教師として滞日していたエッケルト(ドイツ)が、音楽取調掛を指導するようになる。日本のドイツ音楽偏重志向はこのときから始まると言えるかもしれない。

音楽取調掛は一時音楽取調所と称されるが、またすぐに元に戻る。1887年(明治20年)には東京音楽学校に昇格した。

のちに滝廉太郎がドイツへ留学し、日本人による初の西洋音楽の様式による作曲が行われる。滝が世に出した器楽曲はピアノのためのメヌエットと憾みの2つであった。滝は帰国後に多くの唱歌を作曲するが、結核により夭折してしまう。

滝の跡を継いで日本の洋楽シーンを牽引したのは山田耕筰である。山田はドイツに留学し、日本人初のオーケストラ曲「序曲ニ長調」、ついで音詩「曼荼羅の華」、交響曲「勝鬨(かちどき)と平和」を相次いで発表する。その後指揮者としてアメリカへ渡り、また日本で初めての本格的なオペラ「黒船」を作曲するなど多方面で活動した。

明治以降日本の洋楽シーンはドイツ偏重だったが、池内友次郎はフランスに渡り、近代フランス音楽の様式を日本に持ち込んだ。

諸井三郎などのドイツ派、池内友次郎などのフランス派の2大アカデミズムが東京音楽学校において日本の洋楽シーンを席巻していたが、一方で昭和に入ると、松平頼則、伊福部昭、早坂文雄のように独学や東京音楽学校とは無縁の出自を持つ作曲家も現れた。彼らは戦後まもなく新作曲派協会を結成することになる。

フィルター ダミー ドライブイ とっこ クーガー ミズム ソリッド カカオ ゲルサンド ザ・サボイ ソケット ジュート デイオ シェークス 澪標恋 フォーラ フーディア 自由の幻想 スペアリブ オーバー スペイン ピーエル スポッタ サチュ レンツェ リベラル インダー かえる ロウバ パイロ メーン フォックス ブラック シロヤ ブロー パトロー フラダンス タイボ ドジェ ひらない ちょうらく ニワウメ テディ コールド マナイ ザック ローブロ デーション ソール フライ

2009年03月26日

快適に利用できる有料サービス

ニコニコ動画を快適に利用できる有料サービス。2007年6月18日のRCサービスと同時に提供を開始した。プレミアム会員は、以下の特典がある。

プレミアム会員は一般会員の使用できる帯域より大きい帯域幅をサーバーより割り当てられるため、サイトが混雑しても動画を快適に視聴できる。
プレミアム会員はID番号に関係なく24時間視聴することができる。
一般会員は混雑時には動画の画質を落として再生される(エコノミー)のに対して、プレミアム会員は元の画質のまま再生される。
動画のアップロード容量、マイリスト、マイメモリーの拡大やプレミアム会員専用コメントカラーの追加などの特典がある。
後述のニコニコ動画モバイルでは、混雑時に動画を視聴する際にプレミアム会員が優先されるという特典もある。
アップロードできる動画のビットレート制限が1Mbpsに上がる(一般会員は600kbpsまで)。
しかし秋季以降サーバーの処理能力に限界が見えてきていることもあってか、課金ユーザーでも閲覧が厳しい状況になるケースも報告されており、課金のメリットを疑問視する声も存在する。

ニコニコ市場
ニコニコ市場(いちば)は、ニコニコ動画独自のサイト内広告であり、2007年7月12日より開始された。Amazon.co.jpやYahoo! ショッピングの商品、およびドワンゴの携帯電話向けコンテンツを動画の下のスペースに表示するだけのものであるが、最大の特長は、動画閲覧者が、動画に関連する商品を自由に市場に登録できることである。また、「商品をクリックした人の人数」「ニコニコ市場から商品を購入した人の人数」が表示されており、「この動画を見た人がこの商品を購入した」ということが分かるのも特長である。

単純に関連のある商品のみならず、ウケ狙いで商品が登録される(例:歌詞の空耳「ごまえー」→胡麻和えの素)こともあり、しばしばコメント欄に、市場に登録されている商品や、実際に買った人への反応が投稿されることもある。さらに、商品から関連する動画を検索することも可能である。これにより、「広告の存在感」を大幅に向上させることに成功している。もともと2ちゃんねるのまとめブログなどで行われていた、広告を記事のオチとしてネタにする、「アマゾン芸」と呼ばれる文化をうまく発展させ取り込んだシステムと言える。

市場には、Amazon.co.jpやYahoo! ショッピングの商品を最大10個まで[8]、ドワンゴのコンテンツを最大3個まで登録できる。そのうち5個までは商品のサムネイルが表示される。当初はAmazon.co.jpの商品のみサポートしており、さらにAmazon.co.jp側への負荷を軽減するため、プレミアム会員のみのサービスであったが、2007年7月14日より誰でも商品を登録することができるようになり、後日にはドワンゴの携帯コンテンツの対応を開始、2008年5月9日からはYahoo! ショッピングへの対応を開始している。

投稿した動画が削除された場合
ニコニコ動画では、何らかの理由で投稿された動画が削除(規約違反や、投稿者自身による削除など)された場合、単なる文字によるメッセージではなく、専用に用意された動画で、視聴できないことを伝えるようになっている。(夏)からは権利者によって動画が削除された際にその旨を表すメッセージが表示されるようになった。
はにー ファイバ ていん| ジェス オフス たけざお おはじき 一等星 アップ ファー イコノロジー プロテイ ローカル シンプ けん蔵 フリース メモリー はこだて マルチ パルプ シェーバー トライアン ミンク ブティッ 翠の月 ゲスロ コピペ シエラ ネガティブ ずいき ゼンマイ きない トロッ デニール プロデビー ハネム オフタ リヤカー ドーミー カーウォ ボーイ 三和音 ゾル ぎぼう 大逆転 小さい魔女 ソダラ 夢列車 ゴスロ マジッ

この場合、リンク切れしたサムネイルには黒地に白の文字で「視聴できません」と表示される。それを再生しようとすると「本日はニコニコ動画に御アクセスいただき、ありがとうございます。この動画は、○○(理由)により、ご覧になることができません。またの御アクセス、お待ちしております。」という内容のアナウンスともに、映画のエンドロールのように下から上に向かってメッセージが流れる。

このときのBGMは、原則としてスタッフの“fooさん”によるリコーダー演奏である(このため、その専用動画は「笛」と呼ばれることもある)。さらに、“fooさん”の演奏の長さによっては、「引き続き、fooさんのご演奏をお楽しみください。」とアナウンスされ、最後まで演奏が流されることがある。

動画の内容は、時期によって入れ替わる。以下に詳細を示す。

βまでのメッセージの出だしは「本日はニコニコ動画に?」であったが、γ以降はその前置きとして、「春です。」「鬱です。」「まっ盛りです。」「クリスマスです。」など、時期によって異なる出だしが付加されている。
BGMには、『蛍の光』 (Auld Lang Syne)、『大きな古時計』 (My Grandfather's Clock)、『ずいずいずっころばし』、『夕やけこやけ』、『さくらさくら』などの曲が時期替わりで用いられている。
βからγにかけて、スパイクのゲームソフト『喧嘩番長2 フルスロットル』の映像にオリジナルの台詞(ゲーム中のキャラクターが、他のキャラクターになぜ動画が見られないかを尋ねていき、動画が削除されたかメンテナンス中であることを知り「な、なんだってー!」(漫画MMRのセリフ。ネット上で流行した)と驚く内容)を付加して構成したものが流されていた時期がある。音声部分は通常のものとは変わらず、“fooさん”演奏の『夕やけこやけ』をBGMに、通常と同じのアナウンスが入ったものである。なお、スパイクは、ニワンゴと同じくドワンゴ傘下の企業であり、この時期は『喧嘩番長2』の発売日前後であった。その関連で、サイト内の広告も同作のものが表示されていた。
RC初期では、「春です。」から始まるナレーションが流れ、BGMは“fooさん”が小学生以来に挑戦したというハーモニカによる演奏であったが、しばらくしてからはナレーションが変更され、BGMはリコーダー演奏による『茶摘み』が用いられた。「夏」を連想させるものであろう。
RC2開始後しばらくは、“fooさん”の『桃太郎』をBGMにリーゼント姿の男性「はまじ」(ロックンロールバンド SHORT LEG SUMMERのボーカル、東野ハマジ)が、削除されたことを伝える文字をリーゼントで受け流す、という映像が流されていたが、12月に入って『きよしこの夜』をBGMにしたクリスマス専用動画で以前の形式に戻った。
クリスマス終了後はfooさんはお休みということになりSchool Daysの最終話差し替え放送(いわゆる「Nice boat.」で知られるもの)のパロディを思わせる映像になっている。
2007年6月頃(SP1)は動画投稿者によって削除された場合、ペルソナ4のPVの一部が流れた。
権利者の申請により削除された動画は通常のものとは異なり、「この動画は、権利者の申請により、削除されました。」というメッセージが表示される。音声はアナウンスと、“fooさん”がリコーダーでひたすら高音をロングトーンするものである。

2009年03月11日

イエローストーン国立公園

イエローストーン国立公園 (Yellowstone National Park) はアイダホ州、モンタナ州、及びワイオミング州に位置するアメリカ合衆国の国立公園である。イエローストーンは世界最古の国立公園であり、ワイオミング州北西部を中心として3,470平方マイル(8,980平方km)にわたる。この国立公園は様々な間欠泉や温泉、地熱によるその他の見所で有名であり、グリズリーや狼、及びアメリカバイソン(バッファロー)やワピチの群れが生息している。ここは地上に残された数少ない手付かずの巨大温帯生態系の一つであるイエローストーン圏生態系 (Greater Yellowstone Ecosystem)の中心になっている。

イエローストーン地区は北アメリカ大陸最大の火山地帯である。巨大カルデラの形成を伴う大規模な噴火が約210万年前から約60万年前まで計3回起こり、それ以外にも小規模な噴火は約7万年前まで続いていた。現在でも地下には非常に大量のマグマが溜まっており、近い将来(数十万年以内)にまた破局噴火を起こす可能性が高いとされている。地下のマグマだまりのサイズは様々な研究の結果、ほぼイエローストーン国立公園全体の面積に等しい途方もない大きさであることが確認されており、一部の地殻が破壊されただけで急激な減圧が発生し、地下のマグマから大量のガスが発生することを引き金に、人類の生存を左右するほどの気候変動を起こしかねない噴火が起こりうると危惧されている。

現在 マグマが噴出している場所はないが、地殻が活発に隆起したり沈降したりしていることが確認されており、地下のマグマの移動によるものとされている。

この地域と人との関りは1万2千年前にまで遡り、地域内の大峡谷周辺の鉄分を含む黄色い石の存在から、インディアン達に“Mitzi-a-dazi”(「黄色い石のある川」の意)として知られていた(黄色い色は一般に信じられている様に硫黄分の色ではなく、熱水作用によって変色した鉄分の色である)。

イエローストーン地区で産出される黒曜石は、一帯で狩猟していたインディアン達によって石鏃やナイフとして利用されていた。それらは遠くミシシッピ川周辺でも発見されており、イエローストーン周辺で生活していた部族と、はるか東方の部族との交易を示唆する物とされている。

1806年にルイス・アンド・クラーク探検隊を離れて猟師達に加わった元隊員のジョン・コルターが、非インディアンとして初めてこの地域を訪れたとされている。その後、クロウ族とブラックフット族の戦いに巻き込まれて負った重傷の床で、彼はこの地を「火と硫黄」の地であると述懐した。しかしこの記述は熱に冒されていたためのうわごとだと捉えられ、人々はその土地の事を「コルターの地獄」と呼んだ。

1857年にイエローストーン地区を探検したジム・ブリッジャー (Jim Bridger) は沸騰する泉や空高く飛び出す水、ガラスや黄色い石で出来た山の事を人々に話したが、ブリッジャーは法螺吹きとして通っていた為にほとんど信じてもらえなかった。しかし彼の話に興味を持った探険家兼地質学者のファーディナンド・ヘイデン (F.V. Hayden) は、1859年にブリッジャーとアメリカ陸軍測量官のレイノルズを伴って2年の予定でミズーリ川上流の測量の旅に出かけた。一行はイエローストーン地区の入り口まで達したが、豪雪のために先に進めなかった。更に南北戦争のために探検は中止を余儀なくされ、ヘイデンが探検を再開するのは11年後になる。

モンタナ州測量長官ヘンリー・ウォシュバーン (Henry Washburn) 率いる探検隊は、後にイエローストーン国立公園初代管理官となったナサニエル・ラングフォード (Nathaniel Langford) や陸軍派遣隊司令官グスタフ・ドーンと共に1870年に1ヶ月間イエローストーン地区を探検。地域の山などを名付け、標本を持ち帰った。

1871年、ヘイデンは政府支援により大規模な2度目の探検隊を率いてイエローストーン地区に赴いた。ヘイデンはイエローストーンの総括報告書をまとめ、その中にはウィリアム・ヘンリー・ジャクソン (William Henry Jackson) による写真や、トーマス・モラン (Thomas Moran) による絵が含まれていた。このレポートによって議会はイエローストーン地区をオークションにかけて売却する案を変更し、1872年3月1日にユリシーズ・グラント大統領はイエローストーン国立公園を設立する法案に署名した。

1872年に世界で最初の国立公園として指定される。1978年、世界遺産に登録。

隣接する保留地を持つショーショーニ族、バンノック族などは、伝統文化としてイエローストーン内でのバッファロー狩りを年に数度行っている。
大きく5つの地域に区分できる

ガイザー・カントリー
イエローストーンのシンボルになっている間欠泉、オールド・フェイスフル・ガイザー
マンモス・カントリー
テラスマウンテン
ルーズベルト・カントリー
タワー滝
キャニオン・カントリー
イエローストーン大峡谷
アッパー滝とロウアー滝
ノースリム
レイク・カントリー
イエローストーン・レイク

自然


ケーブ・フォール(Cave Falls 35ft/11m)
デュナンダ・フォール(Dunanda Falls 110ft/36m)
ケィゼル・フォール(Quzel Falls 235ft/72m)
コロネード・フォール(Colonnade Falls 100ft/30m)
ファイアホール・フォール(Firehole Falls)
ムース・フォール(Moose Falls)
ルイス・フォール(Lewis Falls 29ft/9m)
ユニオン・フォール(Union Falls 260ft/79m)
ミスティック・フォール(Mystic Falls)
フェアリー・フォール(Fairy Falls)
ギボン・フォール(Gibbon Falls 84ft/26m)
ウンディーネ・フォール(Undine Falls)
レイス・フォール(Wraith Falls)
タワー・フォール(Tower Fall)
ロワー・フォール(Lower Falls)
アッパー・フォール(Upper Falls)
ケプラー・フォール(Kepler Cascades)
ベリル・スプリング(Beryl Spring)
グランド・プリズマティック・スプリング(Grand Prismatic Spring)


イエローストーン・レイク(Yellowstone Lake -400ft/-122m)
ショーショーニ・レイク(Shoshone Lake)
ルイス・レイク(Lewis Lake)
デルシオン・レイク(Delusion Lake)
リデル・レイク(Riddle Lake)
トレイル・レイク(Trail Lake)
エレノア・レイク(Eleanor Lake)
シーヴィン・レイク(Syivan Lake)
トービッド・レイク(Tubid Lake)
フローティング・アイランド・レイク(Floating Island Lake)
ファントム・レイク(Phantom Lake)
カスケード・レイク(Cascade Lake)
グレーブ・レイク(Grebe Lake)
ウルフ・レイク(Wolf Lake)
アイス・レイク(Ice Lake)
ウィート・レイク(White Lake)
ビーチ・レイク(Beach Lake)
インディアン・ポンド(Indian Pond)
ハート・レイク(Heart Lake)
ビューラ・レイク(Beula Lake)
ヘリング・レイク(Hering Lake)
イサ・レイク(Isa Lake)
スコープ・レイク(Scaup Lake)
デ・レイシ・レイクス(De Lacy Lakes)
マラード・レイク(Mallard Lake)
グース・レイク(Goose Lake)
メリー・レイク(Mary Lake)
ニンフ・レイク(Nymph Lake)
ツイン・レイクス(Twin Lakes)
グリズリー・レイク(Grizzly Lake)
ビーヴァー・レイク(Beever Lake)
スポーツマン・レイク(Sportsman Lake)
サミット・レイク(Summit Lake)
バーファロー・レイク(Buffalo Lake)
レンジャー・レイク(Renger Lake)
ババロア フィラン マッチン ビジネス ハワイ ヒューズ ダグアウト マルチ プレムハブ スノーフ 流星群 にんきょう ミステ ぶんぶん ブラテ ハイヒール シングル ラバト ブルンジ バックオ ナッソー トラン ラムサー 鈴蘭 セラセラ つるみ マルセイ コピーイノ ゲーター ブラッド トパイ バーバレ パブリ レベニュ フォーム メタ いささや ハイウエイ ダルトン ハリアー ビーコン ガター サイドカー あぼがど ジンセン スプリング ユリノ ジャーゴン アニムス ビッドレ


トゥーレット山(Turret Mountain 11063ft/3351m)
テーブル山(Table Mountain)
イーグル山(Eagle Peak 11358ft/3462m)
コルター山(Colter Peak 10683ft/3256m)
シュルツ山(Mount Schurz 11139ft/3395m)
スティーヴンソン山(Mount Stevenson 10352ft/3155m)
ドーン山(Mount Doane 10656ft/3248m)
ラングフォード山(Mount Langford 10774ft/3284m)
トップ・ノッチ山(Top Notch Peak 10238ft/3121m)
ギズリー山(Gizzly Peak 9948ft/3032m)
レシーヴェーション山(Reseivation Peak 10629ft/3240m)
コービー山(Coby Peak 10267ft/3129m)
アヴァランチ山(Avalanche Peak 10566ft/3221m)
Pyramid Peak(10497ft/3199m)
Pelican Cone(9643ft/2939m)
Castor Peak(10854ft/3306m)
Pollux Peak(11067ft/3373m)
Saddle Mountain(10670ft/3252m)
Cache Mountain(9596ft/2925m)
Mount Norris(9936ft/3028m)
The Thunderer(10554ft/3217m)
Abiathar Peak(10928ft/3331m)
Prosect Peak
Overlook Mountain(9321ft/2841m)
Mount Sheridan(10308ft/3142m)
Mount Hancock(10213ft/3113m)
National Pake Mountain(7500ft/2286m)
Mount Holmes(10336ft/3150m)
Dome Mountain(9894ft/3016m)
Antler Peak(10023ft/3055m)
Obsidian Cliff(7283ft/2250m)
Sheepeater Cliff
Quadrant Mountain(9944ft/3031m)
Little Quadrant Mountain(9885ft/3013m)
Bunsen Peak(8564ft/2610m)
Mount Everts(7841ft/2390m)
Electric Peak(1096ft/3343m)


イエローストーン川
スネーク川
Lamar River
Gibbon River
Lewis River
Firehole River
Madison River
Gallatin River
Little Firehole River
Bechler River

小川
Mountain Creek
Chipmunk Creek
Miler Creek
Cache Creek
Soda Butte Creek
Pbble Creek
Slough Creek
Blecktall Deer Creek
Tower Creek
Antelope Creek
Lava Creek
Peilcan Creek
LeHardys Rapids
Chipmunk Creek
Grouse Creek
De Lacy Creek
Nez Perce Creek
Straight Creek
Winter Creek
Indian Creek
Panther Creek
Speciman Creek
Fan Creek
Graying Creek
Gneiss Creek
Fairy Creek
Boundary Creek

2009年02月22日

ノヴィアル(Novial)

ノヴィアル(Novial)は、いかなる母語も侵されない国際交流を促進する目的で開発された国際補助語である。それまでイド語の運動に参加し、後にインターリングアの開発に携わることになるデンマークの言語学者イェスペルセンが開発した。ノヴィアル(Novial)とは、nov(new) + IAL で、New International Auxiliary Language(新国際補助語)からの造語。
大和撫子 きゃく サバンナ スキニー 情熱支援 ジャング ナリー ハンドカ ヒットパレ シリング ファンキー サーモス カペラ サラリー ニッケ フリフリ シュプネ ルサン レセプト パング テーション ジェロ スイス イライン おりあお パラシ バーゼル 夢街道 桜雨1押 ノート ワスレ どんしゅう プリン ジャスラック レア日本 永遠偉 白い街 パイロット ブイディ ストーブ チャウダ トカラ 管弦 アビブ スター スティック オモ モカ モンタナ ほうすう

語彙は主にゲルマン語とロマンス語に基づいており、文法は英語の影響を受けている。

ノヴィアルは、1928年にイェスペルセンの著書An International Languageにおいて初めて発表された。2年後に彼の辞書Novial Lexikeの中で改められ、1930年代にはさらなる修正が提案されたものの、1943年のイェスペルセンの死とともに活動は休止していった。1990年代、インターネットのもたらした人工言語への関心の復活によって、ノヴィアルが再発見された。

ノヴィアルはイェスペルセンの著書An International Language (1928年)で初めて記述が現れた。第1部では、国際補助語の目的における民族言語の欠点や人工国際補助語に共通する障害を論じている。また、ヴォラピュク、エスペラント、イディオム・ネウトラル、イド語、無活用ラテン語、インターリング(オクシデンタル)のそれぞれに節を設け、人工国際補助語の歴史に関する批判的概観を行っている。イェスペルセンは、上に挙げた国際補助語に限らず人工国際補助語の問題に関する早期の豊富な研究を利用していることを明らかにしている。

An International Languageの第2部にはノヴィアルの詳細が記述されている。音韻論、正書法、文法、語彙の問題の代替的な解決案が検討されており、民族言語やそれ以前に作られた国際補助語との比較による説明がある。

英語の”one, they, you”のような非人称代名詞はonで表す。

標準的な語順は英語と同じくSVOである。したがって、対格を主格と区別するための標識は不要である。


Me observa vu - 「私は君を観察する」
Vu observa me - 「君は私を観察する」
よって、対格(直接目的語)はほとんどの場合主格(主語)と等しくなる。しかしながら、両義性の問題がある場合には任意で対格語尾の-m (子音の後では-em)を利用できるが、ほとんど使用されていない。前置詞のemはこの語尾と等価である。

人称所有形容詞は代名詞に-n(子音の後では -en)を加えることによって作られる。事実上これは代名詞の属格(所有格)であり、menは「私の」と「私のもの」の両方を意味する。


men hunde - 「私の犬」
Li hunde es men - 「その犬は私のものだ」
前置詞のdeもde me、de vuなどのように所有表現を作る。

動詞
動詞の形は人称や数によって変化しない。多くの動詞の時制、法、態は本動詞の語根の前の助動詞によって表される。助動詞の位置は英語の対応する文の語順に従う。代名詞を例として括弧の中に示す。

現在能動分詞: protektent - "protecting"
過去受動分詞: protektet - "protected"
ノヴィアルでは、「〜になる」の受身と「〜である」の受身を明確に区別する。英語ではしばしばbe+過去分詞で同じ形を取る。しかし、「〜になる」の受身も下の例のようにしばしばget+過去分詞で表される。

「〜になる」の受動態は助動詞のbliを語根の前に置くことで作られる。

冠詞
定冠詞はliで、変化しない。英語と同じように用いられる。

不定冠詞は存在しない。ただし、un(ひとつの)は使用できる。

名詞
複数名詞は-s(子音の後では-es)を単数名詞に加えることで作られる。

対格は通常主格と同じであるが、語尾の-m (子音の後では-em)や前置詞のemで任意に標示できる。複数対格の語尾は-sem(子音の後では-esem)となる。

属格は-n(子音の後では-en)や前置詞の-deで作られる。複数属格は-sen(子音の後では-esen)となる。

形容詞
形容詞は全て-iで終わる。ただし、発音が容易で混乱が生じない場合には語尾を外してもよい。形容詞は修飾される名詞に先行する。形容詞は名詞と一致しないが、受ける名詞が存在しないならば名詞語尾を与えてもよい。

副詞
形容詞は語尾の-iの後に-mを加えることによって対応する副詞に変化する。

語彙
接辞
エスペラント、イド語との比較
イェスペルセンはエスペラントの創作者とは異なり、専門の言語学者だった。彼はエスペラントやイド語に見出した恣意的で人工的な特徴を嫌い、さらにこれらの言語のラテン語のような屈折の体系は無駄に複雑だと考え、反対した。かつて彼は自然言語の有用な構造はそのままに、聞き心地が良く規則的なノヴィアルを模索していた。

ノヴィアルでは、統語は英語や北ゲルマン語のように主に語順の問題である。エスペラントのような義務的な対格標示は存在しないが、対格は対格語尾または対格前置詞で任意に標示できる。
属格や所有格は前置詞deの代替として利用できる。これは、現代の言語は複雑な名詞の屈折を失いつつも所有形を保持しているというイェスペルセンの観測に基づいている。
助辞は動詞の時制を表す。屈折語尾は単純過去時制の省略形として使用できる。
ノヴィアルとエスペラント、イド語の主な違いは名詞語尾に関係がある。イェスペルセンは全ての名詞が1つの母音で終わる体系(エスペラント、イド語の-o)を、不自然で紛らわしいとして拒絶した。代わりに、ノヴィアルの名詞は-o、-a、-e、-u、-umのいずれかで終わる。これらの語尾は、ロマンス諸語の習慣に準じて自然性を示すために採用されたのかもしれない。また、名詞との一致のための形容詞への条件や文法性も存在しない。

2009年02月06日

大隈重信

大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士・佐賀藩士、政治家、教育者。第8代、第17代内閣総理大臣。位階勲等は従一位大勲位。爵位は侯爵。東京専門学校(現早稲田大学)の創立者。身長は180cm[1]あった。
トロラン マケド サイフォ 支援ハム ファー キール ジェット レーダー ロールオ デイゲ モール かでな ルーレット タラソテ アーク コート ユークリッ さがほのか ピュービッ チリメン マーク リスク シルク カーゴ 未来の地図 ほこた クローズ ナチズ リバイ スベタパ イヌホ 一所懸命 リズミカル ジンマオ 星空の ロマンチスト ヒメジョオ ケジャン フェースラ デコサ タート ニンフ パラフェニ 浮草の宿 プレイボ カミーン チボール かせい アイト ユキモチ

佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。

重信は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学、後に復学を許されたが戻らず、この頃、枝吉神陽から国学を学ぶ。安政3年(1856年)、佐賀藩蘭学寮に転じた。のち文久元年(1861年)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。

大隈は、長州藩への協力および幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するには至らなかった。そして慶応元年(1865年)、佐賀藩が長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)にて、副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。またフルベッキに英語を学んだ。 このとき新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、大きく影響を受けた。また京都や長崎に往来して、尊王派として活動した。慶応3年(1867年)、副島と共に将軍 徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛の上、佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。

明治維新
明治維新に際しては明治元年(1868年)、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。キリスト教禁令についてのイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮するとともに、明治2年(1869年)からは会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。明治3年(1870年)に参議に補され、明治6年(1873年)5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。大隈の下には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで近代国家の早期建設を謳って大久保利通らを牽制した。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。民部省を吸収合併させて大蔵省を一大官庁とした大隈は地租改正などの改革に当たるとともに、殖産興業政策を推進した。征韓論には反対し、その後、殖産興業と財政改革という点から、明治8年(1875年)10月には、大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出したりしている。また、単独でも財政の意見書を提出している。さらに、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった。自由民権運動に同情して国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と国会の即時開設を説く一方、開拓使官有物払下げを巡りかつての盟友である伊藤ら薩長勢と対立、大隈自身の財政上の失政もあり、明治14年(1881年)10月12日、参議を免官となった。 いわゆる明治十四年の政変である。大隈は、10月15日付で辞表を提出した。明治13年(1880年)には、会計検査院創設のための建議をおこなっている。

下野後
野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には小野梓とともに立憲改進党を結成、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄(龍渓)らが馳せ参じた。また10月、小野梓や高田早苗らと東京専門学校(現早稲田大学)を東京郊外の早稲田に開設した。

明治20年(1887年)、伯爵に叙された。

外務大臣から総理大臣へ
大隈の外交手腕を評価する伊藤は、不平等条約改正のため、政敵である大隈を外務大臣として選び、明治21年(1888年)2月より、大隈は外務大臣に就任した。 同年 黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が反対派の抵抗に遭い、明治22年(1889年)には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受け、右脚を失うとともに、辞職した。明治29年(1896年) 第2次松方内閣(「松隈内閣」(しょうわいないかく)と呼ばれる)で再び外相に就任するが薩摩勢と対立して明治30年(1897年)に辞職した。

明治31年(1898年)6月に板垣退助らと憲政党を結成し、同年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組閣した。俗に言う「隈板内閣」(わいはんないかく)である。しかし旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じ、また文相尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職すると後任人事をめぐって対立はさらに激化。 後任文相に旧進歩党の犬養毅が就いたことに不満を持った旧自由党の星亨は、一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成した。結局、組閣からわずか4ヶ月後の11月8日、内閣は総辞職する羽目となり、大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いることとなった。明治40年(1907年)、いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。

第一次護憲運動が興ると、政界に復帰した。大正3年(1914年)にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受けて、2度目の内閣を組織した。与党は立憲同志会、大隈伯後援会および中正会である。7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確保を求めて、8月23日に対独宣戦布告をおこなった。翌・大正4年(1915年)には外相 加藤高明と共に対華21ヶ条要求を提出した。 しかし内相 大浦兼武の汚職事件(大浦事件)が起こると、8月には自身が外務大臣を兼任するなどして内閣を改造するも、内閣は次第に国民の支持を失っていった。さらに内閣に対する元老の圧迫が激しさを増し、大正5年(1916年)10月ついに内閣は総辞職、あわせて政界から完全に引退した。退任時の年齢は満78歳6ヶ月で、これは2009年現在も日本の歴代総理大臣中最高齢の記録である。

護国寺(東京都文京区)内 大隈重信墓
大隈重信墓この間、大正5年7月に侯爵に叙された。大正11年(1922年)1月10日に早稲田で死去、1月17日に自邸での告別式ののち、日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催された。その名が示すように式には約30万人の一般市民が参列、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。この三週間後に同じ日比谷公園で行われた山縣有朋の「国葬」では、山縣の不人気を反映して政府関係者以外は人影もまばらで「まるで官葬か軍葬」と言われ、翌日の東京日日新聞は「民抜きの国葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じたほどだった。墓所は佐賀市の龍泰寺と東京都文京区の護国寺にある。

大隈の人となり
伊藤博文をライバル視していたことがよく知られており、以下のようなエピソードが伝えられている。

明治30年(1897年)に大磯に別邸を構えたが、この別荘から西へわずか60メートルの地所には、当時、伊藤が本邸を構えていた。様々な政治上の軋轢があった相手との近い距離のためか、大磯別邸はあまり使用されず、明治40年(1907年)には別邸を新たに国府津に構え、わずか10年で大磯を引き払っている。
大隈と同郷で、かれに目をかけられた行政法学者織田萬のエッセイ集『法と人』(1943年、春秋社教養叢書)によると、早稲田大学開学式典で伊藤が「大隈君とはいろいろ競ってきたが、教育機関を自ら作ったという点ではかなわない」と述べたことに満悦したという。また伊藤がハルビンで暗殺されると、「なんと華々しい死に方をしたものか」と悲しみつつも本気でうらやんだとのことである。
大正8年(1919年)、病床にあった成瀬仁蔵を励ますために、トマトやメロンをもって見舞った[2]。

口癖は「何々であるんである」。時には「何々であるんであるんである」となる。

あちこちに講演に招かれて人気があったが、禁酒団体と酒造業組合を一日のうちにはしごしたことがあるという。これは大隈が政治家であるため様々な方面に応援を求めなければならなかったという事情も存在する。早稲田大学非常勤講師の佐藤能丸は、このことが今日に至るまで大隈の全集が発行されていない遠因となっていると指摘している。

極めて合理的な考えを持っており、日本の暦を現在使われているグレゴリオ暦に変えた。英雄を認めず、そのためか西郷隆盛を全く認めていない[要出典]。一方、西郷も大隈を「俗吏」とみなして嫌っていたとされ、特に明治4年(1871年)の西郷上京の際に書かれた「西郷吉之助意見書」では名指しこそ避けたものの大隈の政策を「武士のやること」ではないと切捨て、更に同年に西郷の推挙で大蔵省入りした安場保和が大隈への弾劾意見書を提出したこと(西郷も大久保もこれには反対したために却下された)によって、大隈の西郷への反感は抜きがたいものになったとされる。しかし、大隈は西郷について、「人情には極めて篤かった」とも述べている[3]。

昭和44年(1969年)から45年(1970年)にかけて、早稲田大学出版部で「大隈伯昔日譚」などが入った木村毅監修『大隈重信叢書』全5巻が出された。

平成19年(2007年)、大正4年(1915年)に蝋管(蓄音機の初期型)に録音された総選挙応援演説の肉声が、東大先端科学技術センターにより公開された。また、日本初の地方遊説を行った首相でもある。

栄典
大正5年(1916年)7月14日:大勲位菊花大綬章
大正11年(1922年)1月10日:大勲位菊花章頸飾 没後受勲

系譜
大隈氏
明確ではないが菅原道真の末裔を称する家泰が筑後国大隈村(現:福岡県)に土着し姓を大隈と改めその孫・孝家の代に豊後国中津江村(現・大分県)に移住しやがて鍋島氏に仕えたという。家紋は丸に剣桔梗。
家泰…(略)…満辰━信保━重信=英麿=信常┳信幸┳和子
                     ┗豊子┣治子
                        ┣明子
                        ┗里砂
大隈の長女・熊子の幼名は犬千代である

2009年01月22日

死刑は応報刑か教育刑か

刑罰は過去の犯罪行為に対する応報として犯人に苦痛を与えるために行うものとする応報刑論が唱えられていた。そのうちカントが唱えた絶対的応報刑論では刑罰は悪に対する悪反動であるため、犯した犯罪に相当する刑罰によって犯罪を相殺しなければならないとしていた。しかし近代になって残虐な刑罰が批判されてきたため、刑罰が応報であることを認めつつも、刑罰は同時に犯罪防止にとって必要かつ有効でなくてはならないとする考え方である相対的応報刑論が唱えられるようになった。
近代では刑罰は犯罪を抑止する目的で設置される性格を持つという目的刑論が主張されるようになり、一般市民への犯罪抑止力等としての一般予防論と犯罪者の教育・更生・隔離の目的で犯罪者自身に刑罰を施す事で、犯罪者が再犯することを予防することができるとする特別予防論に分けられる。この刑論において死刑は犯罪者の命を奪う刑罰であるため更生を目的とした教育効果について考えることは意味はないため、死刑を適用された犯罪者は凶悪で矯正不能な者であり、永久に社会から「隔離」するための無力化効果のみを指すことになる。そのため、結果的には死刑囚が犯行を反省し、悔い改めても意味はないことになり、教育的効果は期待できないという反論もある。そのため、近代刑罰の主流となった教育刑とは異なり、死刑囚だけが原始時代から続く応報刑である処刑を受けることに対し批判がある。
日本で、死刑を合憲とした最高裁判例は、現代の刑法では忌諱される応報論ではなく、犯罪者に対する威嚇効果と無力化効果(隔離効果)による予防説に基づいて合憲している。なお、予防説では死刑は一種の必要悪であるとして、犯罪に対する反省も無く改善不能で矯正も不可能な犯罪者は、社会防衛のために死刑にするものいたしかたないとの死刑存置派からの論拠があるという[1]。実際に日本の検察側の死刑を求める求刑や裁判所の死刑判決に、死刑囚を『矯正不能な犯罪者』という表現が用いられる場合が少なくない。これに対しては優生学的観点による主張であるとして、邪論であるとの批判もある。
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残虐性の有無
死刑廃止派は、究極の身体刑である死刑が残虐な刑罰の禁止と矛盾すると主張する。死刑存置派は「火あぶり」、「磔」など苦痛を伴う残虐な方法による死刑のみが究極の身体刑であると主張する。また、苦痛を与えることを目的としない死刑は拷問に当たらないとされる。日本で行われている絞首刑では、実際に見学した人物の証言[2]では、死刑囚の遺体から目と舌が飛び出しており、口や鼻から血液や吐瀉物が流れ出しており、下半身から排泄物が垂れ流しになっていたというが、実際のところ日本では死刑囚の遺体が公開されたことも無いので、本当のことはわからない。一方で1994年12月に死刑執行された元死刑囚の遺体を引き取った遺族が法医学教室の協力で検証した実例[3]では、気道をロープで一気に塞がれたことにより、意識が消失して縊死した可能性が高いとされており、死刑囚は速やかに死出の旅路についたといえる。
しかしながら、死刑存置国であるアメリカ合衆国では、日本で行われている絞首刑を死刑囚の首が執行の際に引きちぎれる危険があり非人道的であるとして、現在では完全に廃止されている。そのため「人道的執行方法」として薬物投与による安楽死、すなわち薬殺刑が新たな処刑方法として採用され、他の死刑存置国においても一部採用されている。
また、中華人民共和国では、「犯罪抑止の為の威嚇」の手段として公開処刑が行われ、この時の映像が配信されていた。この時の映像のひとつにデイリーチャイナ紙のインターネットサイト[4]では、銃殺による10人の女性の同時公開処刑の画像を掲載している。これによれば、後頭部を軍人が後ろから火器で射撃するもので、死刑囚の頭部は射撃の衝撃で吹き飛ばされ、衣服は血に染まっていた。このような残虐な様相のため、世界の多くの人権擁護団体から中国政府に対し公開処刑とともに死刑の執行方法に強い非難を集めている。
そのため日本でも絞首刑には短期間ながらもそれなりの苦痛が伴うとして、アメリカ合衆国で採用されている薬物などによる薬物注射による薬殺刑が適当な死刑執行方法であるとする主張[5]も存在する。ただし、その薬殺刑についても異常な刑罰との訴訟があったが、アメリカ連邦最高裁は2008年4月に憲法に反しないとの判断を下している。

2009年01月15日

リルケやトラークルらへ財政支援

ウィーンへ戻ったウィトゲンシュタインは『論考』の原稿をヴィルヘルム・ブラウミュラー社へ持ち込んだが、印刷代を自分で持つなら出版してもよいとの返事しか帰ってこなかったため、この出版社からの刊行は断念する。というのもウィトゲンシュタインは復員して間もなく、親類や弁護士の説得に耳を傾けずに全財産を放棄していたためである。次いで彼はフレーゲの論文を載せていた『ドイツ観念論哲学への寄与』という雑誌にフレーゲを通じて掲載を依頼するが、無名の新人哲学者のために雑誌の全紙面を割くわけにはいかないとの返事によりこれも断念。またこの間のやり取りによりフレーゲが『論考』をまったく理解していないことを知り落胆する。その後、かつてリルケやトラークルらへ財政支援をした際の代理人であり編集者でもあるルートヴィヒ・フォン・フィッカーを通じていくつかの出版社へ打診するがいずれもよい返事は得られず、ウィトゲンシュタインは失意の底へ落ち込むこととなる。この年(1919年)の12月、ウィトゲンシュタインはラッセルとハーグで待ち合わせて再会する。二人はこの本について語り合い、その議論に基づいた序文を高名なラッセルが書いて付け加えれば出版の望みは増すだろうというアイディアに達する。予想通りレクラム社が関心を寄せてきたためラッセルは序文を執筆するが、その原稿を見たウィトゲンシュタインは、ラッセルがフレーゲ同様に『論考』を理解できていないことを知りまたも失望する。1920年、レクラム社からも断りの返事が戻ってきたころ、ラッセルは「私の序文などどうでもいい、イギリスで出版してみてはどうか」と手紙を書くが、もはや『論考』出版への情熱を完全に失い「ご自由にどうぞ」と返信を書くウィトゲンシュタインは再び自殺を考えるようになっていた。

著者であるウィトゲンシュタインが哲学への熱意を失い、田舎の小学校教師になったあとも(次節参照)なおラッセルは『論考』出版のために奔走した。1921年には友人のC・K・オグデン(Charles Kay Ogden)を通してイギリスのキーガン・ポール社から英訳版の出版契約を、さらにヴィルヘルム・オストワルトが編集するドイツの雑誌『自然哲学年報』にオリジナルのドイツ語版を掲載する契約を取り付けるに至る。ラッセルの知らせを受けたウィトゲンシュタインは初めこそ素直に喜んだものの、オストワルトから送られてきた雑誌を見て、余りの誤植の多さに愕然とした。というのも、ウィトゲンシュタインがオストワルトに送ったタイプ原稿では、タイプライター上に存在しないさまざまな論理学記号をそれに似た形の別の記号で代用していたのであるが(例えば「⊂」の代わりに「C」など)、それがウィトゲンシュタインの校正を経ずにそのまま印刷されていたのである。しかしそれにやや遅れて開始された英語版の編集作業に関しては、翻訳にあたった数学者のフランク・ラムゼイ(Frank P. Ramsey)とオグデンが誤植だらけのドイツ語版を見て感じた疑問点などをウィトゲンシュタインに問い合わせながら行ったため、その仕上がりはウィトゲンシュタインも満足のゆくものとなった。このときオグデンからウィトゲンシュタインに寄せられた質問の一つは題名に関するものであった。オストワルトのドイツ語版は原題 " Logisch - Philosophische Abhandlung " のまま出版されたが、これをそのまま英訳すると意味の取りづらいものとなるため英語版用に新しく題名を考えた方がよいとオグデンは主張したのである。ラッセルは " Philosophical Logic " という案を寄せたがウィトゲンシュタインは「哲学的論理学」などというものは存在しないと拒否し、ムーアの提案したラテン語の表題 " Tractatus Logico - Philosophicus " を採用した。このタイトルは、スピノザの " Tractatus Theologico-Politicus " (『神学・政治論』)になぞらえたものである。オグデンらとの打ち合わせを踏まえてウィトゲンシュタインは綿密な推敲、校正を行い、英独対訳版『論理哲学論考』は1922年11月、ようやく陽の目を見ることとなった。

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