冊封体制の始まり
周王朝では頂点である王がその下の諸侯に対して一定の封地を分割して与え、その領有を認める封建制が行われていた。その後の春秋戦国時代にはその形態が崩れ、再統一をした秦では封建制を否定する形で皇帝が天下の全ての土地を直接支配し、例外を認めない郡県制が行われた。
全ての土地を直接支配すると言うのはもちろん理念上の話であり、現実には匈奴を始めとして秦の支配に従わない周辺民族が多数存在した。しかしこの理念がある限りはこれら周辺民族に対しては征服するか無視するかのいずれかしか無くなり、国際関係の発生のしようが無かった。
秦に取って代わった漢では郡県支配をする地域と皇族を封建して「国」を作らせて統治させる地域に分ける郡国制を行った。この郡国制が登場したことにより、周辺民族の「国」もまた中国の内部の「国」として中国の「天下全てを支配する」と言う思想と矛盾無く存在できるようになるのである。
パパは一年生
ひまわりの丘
ベロベロこぞう
みかんの花
ゆかいな家族
わがままパソコン実務
一休さんの最新コラム
乙女のまごころ
花莉菜の政治思想
希望の炎
巨人の星
結衣のスポーツサミット
剛昌の貧乏生活
四つ葉のクローバー
終わりなきメッセージ
少年時代
真赤な秋
生活実用チャネル
素晴らしき日常
大夢温厚篤実
冊封の事例の始めとして、南越国に対するものと衛氏朝鮮に対するものが挙げられる。この二国はそれぞれ漢より「南越王」・「朝鮮王」の冊封を受け、漢の藩国となったのである。
両国は武帝の治世時に滅ぼされ、朝鮮の土地には楽浪郡・玄菟郡・真番郡・臨屯郡が、南越の土地には南海郡・交趾郡などが置かれ、漢の郡県支配の元に服すようになり、冊封体制も一旦は消滅する。